Sounds of infinity:</br> Ron HardyとThe Music Box

Sounds of infinity:
Ron HardyとThe Music Box

シカゴハウスの革命的DJとその遺産

シカゴハウスの黎明期において、Ron Hardy(ロン・ハーディ)は、その革新的なスタイルと情熱でシーンを牽引した伝説的なDJです。彼が活躍したクラブThe Music Boxは、1983年から1987年にかけて、ハウスミュージックの成長と進化の中心地となりました。本稿では、Ron Hardyの生涯、The Music Boxでの影響力、そして彼の音楽的遺産について探求します。

Ron Hardyの生い立ちとキャリアの始まり

1958年5月8日、シカゴ南部のチャタム地区で生まれたRon Hardyは、幼少期から父親のBlue NoteやAtlanticレコードのコレクションに夢中でした。学校の勉強よりも音楽に熱中し、10代の頃には自宅のレコードプレーヤーで音楽を楽しんでいました。1974年、シカゴのゲイクラブ「Den One」でDJとしてのキャリアをスタートさせ、独自のミックススタイルで注目を集めました。しかし、1977年にロサンゼルスへ移住し、一時的にシカゴの音楽シーンから離れることとなります。 

The Music Box:ハウスミュージックの温床

1983年、シカゴのクラブオーナーであるRobert Williamsは、伝説的なDJであるFrankie KnucklesがWarehouseを去った後、新たなクラブ「The Music Box」をオープンしました。Williamsは、かつてニューヨークのパーティーシーンでFrankie KnucklesやLarry Levanと交流があり、シカゴに本格的なアフターアワーズクラブを作ることを目指していました。Ron Hardyは、この新しいクラブのレジデントDJとして招聘され、彼の革新的な選曲とミキシングスタイルでクラブを盛り上げました。 

革新的なDJスタイルと音楽的影響

Ron HardyのDJスタイルは、既存の枠にとらわれないものでした。彼は、ディスコ、ソウル、ファンク、ロック、ニューウェーブなど、ジャンルを超えた楽曲を大胆にミックスし、独自のエディットやエフェクトを駆使して新たな音楽体験を提供しました。特に、ローランドのTB-303を使用したPhutureの「Acid Tracks」を初めてクラブでプレイした際には、最初は観客が戸惑ったものの、繰り返しプレイすることで熱狂的な反応を引き出し、アシッドハウスの誕生に大きく貢献しました。 

The Music Boxの閉店とその後の影響

1987年、シカゴ市がアフターアワーズクラブの営業時間を制限する条例を施行したことにより、The Music Boxは閉店を余儀なくされました。その後もRon Hardyはシカゴ各地でDJ活動を続け、多くのアーティストやプロデューサーに影響を与えました。しかし、彼はヘロイン中毒や健康問題に悩まされ、1992年3月2日に34歳でこの世を去りました。彼の死後も、その革新的なスタイルと情熱は、多くのDJや音楽ファンに影響を与え続けています。 


参考文献: